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チラシの裏

暇だったので始めてみた。適当にいろいろかく。

話していいことと話してはいけないこと

夜中で眠れないので書く。

 

先日、アクチュアリー受験研究会なる組織の会合に初参加してみた。アクチュアリーで活躍している人や去年試験科目に合格した運営委員の人などから話を聞いたりなどした。

その後は懇親会という名の飲み会に参加、二次会の最後まで参加させてもらった。

 

おそらく、ミクロ経済学における合理的な判断をする消費者を想定した場合、二次会に行くための費用(一人知らない人間の輪の中にずけずけ行く精神的な費用とお酒代)とそれによって得られる便益(幾らかの確率で発生する貴重な話を金銭化した時の期待値)を考えた時、費用が遥かに上回るので、二次会には出ないという選択をするはずである。僕は出た。「僕は合理的な消費者ではない!ミクロ経済学は間違っている!」という反骨精神ではない。ただ単に、長いこと同じ時を過ごして顔を覚えてもらおうとしただけである。

 

結果そこにいるだけの人となってしまった僕はそれなりの居づらさを感じた上に、これで顔を覚えてもらったかというと微妙(覚えてもらっていたとしてもそんなに印象は良くないだろう)というかんじである。

 

僕は反省をする、人と話した時にするコミュ障特有*1の反省会である。自己の行動を客観視する。物語化する。僕は現代文は苦手である。大学入試も30/100くらいであった。*2登場人物の心情の読み取れなさについてはピカイチの自信がある。

 

その中での自分の中でのひとまずの結論として。

「僕にとっては、みんなが知らない人であったが、みんなにとっては僕が知らない人であった。ということはやっぱり知ってもらう必要があったんだな。」と。

 

数学科の人が多いとはいえ、その中では非常に華やかな雰囲気のアクチュアリー志望の中でオタクバレをする勇気がなかったってことやな、要するに。*3

 

しかし、この事実は多少なりともの一般化を持つと思う。即ち、様々な場面においても、自分を知ってもらうということの大切さである。確かに、どんな場面でも俺が俺がと出ていくのは非常にうざったいかもしれない。しかし、それはそれで、失敗を重ねて調整していくものではないだろうか。自分なりの他者とのかかわりとの妥協点を見つけていく過程で失敗を恐れてはならない。

 

他人とのかかわりの基礎に会話がある。会話とはその基礎に話題と言うものが不可欠である。話題の基礎にはその人の人生経験が内包されている。人生経験のうち、多くが他人と共有できる人がいる。そんな大それたことじゃなくても、例えば音楽を聞いてどのドラマの誰の曲だかわかったりとかそういうのである。僕はそこまで他人と共有できる話題を持ち合わせていない。寧ろ、ほとんど今までの21年間において、ニッチな方向へ進んでいくのを良しという信念のもとに生きてきたといっても過言ではない。*4

 

でも、それはそれでいいんじゃないかなという風に感傷に浸って自分を慰めることでこの問題を解決しようと試みる。つまり、みんながみんな、人生経験の平均を取ったような中心人物じゃなくていいということである。平均を装い、話題を選び「話していいことと話してはいけないこと」を自分の基準で作って、当たり障り悪そうなことを言わないようにして会話する必要なんてなく、謙虚に自分はこういう人間だったんですという意志表明をすればそれでいいんじゃないだろうか。後は環境が何とかしてくれたり何とかしてくれなかったりする。

 

それが出来ていたら苦労しないという話ではあるが。

*1:らしい

*2:忘れたけどそんなもん。たぶん。

*3:その辺をカミングアウトしたところでどういう話になっていたかは微妙だけど。

*4:過言かもしれない。